福島県いわき市好間町北好間(よしままちきたよしま)、常磐自動車道いわき中央インター出口から国道49号線を郡山方面に目を移すと、約200m先の国道沿いに好間山長壽院の本堂やふもとから山中腹までの墓地を目にすることができます。
東日本大震災の影響を少なからず受け、地盤のゆがみにより、墓地も波をうったままとなって手の施しようがないまま現在に至っており、その爪痕として震災の大きさを物語っています。
正確な資料は残っておりませんが、大同元年(806年)の開創で、当初は堂田山光蔵院と呼ばれ、薬王寺(現いわき市四倉)の末寺と伝えられています。
明治の初め、廃寺となった高野(こうや:現いわき市内郷)の長壽院(当時は西小川の宝聚院の末寺)の名称を移築して再興し、現在の好間山長壽院と号したと言われています。過去帳は元禄年間(1688~1703)からのものが保存され、それによって現在の本堂は安政元年(1854)の建立であることがわかります。明治政府の「神仏分離令」(俗に言う「廃仏毀釈」)や「上知令」といった仏教弾圧により廃寺となった寺や、それらの僧侶はほとんどが農業に変わったので、再興できずに墓地だけのお寺は、近隣だけでも、下好間、中好間、大利(おおり)、榊小屋(さかきごや)、今新田(いまにいだ)、川中子(かわなご)の7ヶ寺もあり、全て部落管理の墓地となっています。
長壽院においては、現存する再興の許可書(引寺之儀二付願)によれば、明治4年元光蔵院は前述の通り廃寺となりましたが、地元の支援による再興の手続きにより、当時の北好間村の村長であった木田喜四郎氏の土地の提供を受け、明治11年に、前述の通り長壽院という名称を移築し再興が認められたことがわかります。また本資料によれば、栗川村(現いわき市小川町)宝聚院住職舘喜英氏、赤井村常福寺住職武田亮覚氏の署名があることから、再興時の住職はいずれかの兼務で成り立っていたと推測されます。(本資料に当時の専任住職らしき名前が無いことによる。)
以下の歴代住職が、好間山長壽院といて従事しており、現在に至っております。
大久保大量氏 | 明治43年9月5日亡。賽衆寺の住職を経て入寺(入寺時期不明)。 |
楠正隆 | 大正12年7月まで従事。現勝行院住職楠宗融氏の祖父。 |
白土賢隆 | 大正12年7月より住職として入寺。昭和33年10月19日亡。 |
小谷松芳隆 |
当時密蔵院住職。昭和37年9月までの兼務住職。 前住職賢隆の妻白土ミツの実兄。 なお、密蔵院は現在住職不在の為白土智貴が兼務している。 |
白土和男 |
昭和37年9月住職就任。白土賢隆の次男。 令和3年6月住職辞任、現在は長老として従事。 |
白土智貴 |
令和3年6月住職就任。白土和男の長男。 併せて兼務寺密蔵院の住職を兼務。 |
山号名称 | 好間山長壽院 |
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宗派 | 真言宗智山派 |
総本山 | 智積院 |
所在地 |
〒970-1145 福島県いわき市好間町北好間槐作12 |
連絡先 |
TEL:0246-36-2814 FAX:0246-88-7639 |
永代供養に関するご案内については、こちらをご確認ください。
長壽院のおける法要は、以下の種別があります。
特定の年の故人の命日に行われる追善供養を意味します。年忌法要には亡くなって満1年の一周忌や、満2年に行われる三回忌から、最大百回忌までの計13種類がありますが、一般的には三十三回忌まで、ご遺族のご希望により五十回忌まで行う場合があります。
当院では、年回忌に応じた故人の卒塔婆をご用意させていただきますので、本堂にお集まりいただき、当院本尊を前にして、故人を偲ぶ法要を勤めさせていただきます。
その際は、故人のお位牌やお写真をお持ちいただき、故人を偲ぶとよいかと存じます。
開眼供養には、位牌開眼と墓石開眼の2種類があります
抜魂供養は、墓終い、または他所へ移設する場合など、そのお墓に宿っていた魂を抜く法要です。この法要は、お墓にてご遺族と共にお勤めいたします。
故人の死後、四十九日の忌明けを過ぎてから初めて迎えるお盆であり、初盆とも呼ばれるものです。
当院では、いわき市近郊であれば、お盆期間にご自宅を訪問し、新盆法要を勤めさせていただきます。
また、ご自宅でお盆を行われない場合や、遠方の場合は、お盆期間前に、本堂にて新盆供養を行いますので、各種法要を合わせご予約下さい。
「年回忌法要」「開眼供養」のご予約や、その他の法要・各種お問い合わせは、以下のページより受付を行っております。
以下の選択が可能です。
1)お墓を残したままの永代供養
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真言宗智山派 長壽院